守娘 女性として生まれて生きるということ

守娘という台湾のマンガを読んだ。

清の時代のお話ということだから、17世紀か。日本は江戸時代の始まりくらいだ。

 

男性には幸も富も多いとされ、娘が生まれることはあまりよしとされなかった、とされる時代の、そろそろ結婚する年頃の、潔娘(ゲリョン)を主人公とし、台湾の三大伝説のひとつをモチーフに、物語は進行する。

 

男尊女卑という言葉では足りないくらい女性の意思は尊重されない。しかしお祈りや儀式は尊重される。

 

生まれてくる(とくに最初の)子どもが、男の子でうれしい、という言葉を、現代でも見聞きする。その度にクエスチョンマークで頭がいっぱいになる。わたしは女性として生きてきているのだが、どちらでもおなじ人間だし子供ではないか、と素朴に思う。データを見始めたら、女性のガラスの天井は劣化としてあるし、男性の犯罪率は高いし、ほかにもいろいろある。おそらく、どこを見るかでどちらが良いというのは変わってくる。

 

生まれてくる性別なんてそんなもん選べるものでもないし、どっちでも本人の特性と環境と教育によるじゃん、といつも思う。子どもを産むとなったら、どこかで腹を括って、生まれてくるその人がなるべく幸せになるように最大限はからうほかない。性別がどちらでも、特性がどんなでも。そこから何を得られるかは、そこに関わる本人次第だろう。

 

その伝説のモチーフは、貞操を貫いて死んだ未亡人ということらしいのだが、悪霊としてこの世に残ったのに、悪い奴らを呪い殺し、でもその後は加護を求めて信仰が生まれる、という、悪いのか良いのかわからないプロフィールの人物である。(理解が足りないかもしれないけど)

日本だと、菅原道真が怨霊として恐れられた後に神様として崇められているようなことかなと思うけども。

 

実在の人物を信仰するというのがあんまりピンとこないようなきもするけど、ブッダもイエスもいたんだもんなたぶん…

 

時代をとっても場所をとっても、わたしはとても恵まれた環境で生きている。大学まで行かせてもらったし、セクハラにもパワハラにも大してあわず(皆無ではない)、結婚については小言を言われつつも自分の意思のもと人生を歩んで来れている。自分の意思で何かを決めることのキツさというのもあるのだけれども、それは団扇の両面というか、とはいえ自分の意思だけではどうにもならないということを、ある意味諦めることも必要で、そうでないと自分の選択の重さ(クンデラに言わせたら軽さなんだろうね)に押しつぶされてしまう。

 

しかし、本当に先人たちが命を賭して切り開いてくれた生きる道があるからこそ、わたしはここでのうのうと生きていられるんだな。そこんとこ忘れないでいかねば。